草木萌動(そうもく めばえいずる)。
雨水・末候を表す七十二候です。
雨水の三候を並べると、
春が「順番に現れてくる」ことがよく分かります。
- 土が潤う(土脉潤起)
- 空がゆるむ(霞始靆)
- そして――芽が出る(草木萌動)
ここでようやく、春は“目に見える姿”になります。
芽。
それは小さく、控えめで、
気づかずに通り過ぎてしまうほどの変化です。
けれど芽吹きは、
季節の転換が「もう引き返せない段階」に入ったことを知らせます。
春は確かに始まった。
もう止まらない。
草木萌動とは、その宣言のような候です。
目次
■ 「草木(そうもく)」=草も木も、全部
草木は、草と木。
つまり
地面に近い命も、枝先の命も、いっせいに動き始める
という意味です。
冬のあいだ、植物は眠っていたわけではありません。
ただ、外から見える動きが止まっていただけ。
春になると、
その沈黙がふっと解ける。
草も木も、いっせいに。
昔の人はこの変化を、
「芽が出た」よりも少し広く捉えていました。
萌動(めばえいずる)=命が動く。
芽吹きは「姿」ですが、
萌動は「始動」です。
■ 「萌える」という言葉がぴったりな理由
萌える、というと現代では別の意味でも使われますが(笑)、
本来の萌えるは
内側からふくらむ
いのちが湧くように立ち上がる
という語感です。
芽は、いきなり出てきません。
地中で、静かに
少しずつ膨らんで、
押し上げるように、出てきます。
地面を持ち上げる力。
固い皮を破る力。
寒さの名残を押しのける力。
この力が「萌え」です。
草木萌動は、
芽が可愛いという話ではなく、
世界が動き出したという“力”の表現なんですね。
■ 芽吹きの季節は、どこを見ると分かりやすい?
芽吹きは、注意していないと見逃します。
なので「芽の気配」を見つけやすい場所を挙げると、
- 道ばたの土の縁
- 石垣の隙間
- 日当たりの良い斜面
- 畑の畝の黒土
- 神社や寺の境内(落ち葉の下)
- 河川敷
このあたりに、いきなり「緑の点」が増え始めます。
よく見ると、
冬の枯れ草の根元に、小さな若草。
あるいは木の枝先に、
硬かった芽が少しほどけたような膨らみ。
春って、こういう「増え方」をします。
一輪の花より、
芽の点が増えるほうが、春の本体かもしれません。
■ 芽吹きは「暦の上」で早いのか?
正直なところ、雨水の末候でも、
現実の体感はまだ寒いことがあります。
「芽なんてまだだよ」
そう思う年もある。
でも七十二候が描いているのは、
全国一律の観測ではなく――
**春の始まりの型(かた)**です。
土がゆるむと、
水が動く。
空が霞むと、
光がやわらかくなる。
そうして条件が揃うと、
芽が動く。
この順番は、
早い遅いに関わらず、毎年ほぼ崩れません。
だからこそ候は、
春を「体感」ではなく「仕組み」として語れるのです。
■ 今の暮らしでは「芽」をどう感じる?
現代の私たちは、季節を数字で知ります。
気温。
降水確率。
天気図。
でも芽吹きは、数字でなく、
目で見る春の始まりです。
芽を見た瞬間、
私たちはもう「冬の世界」には戻れません。
そして面白いことに、
芽を見つけると、人は急に忙しくなります。
「そろそろ衣替えかな」
「花粉来るな…」
「春が始まったな」
暮らしが、春モードに切り替わる。
芽吹きは、自然のサインであると同時に、
人の生活を切り替えるスイッチでもあるんですね。
■ 雨水が終わり、啓蟄へ
草木萌動は、雨水の末候。
つまり、雨水の締めです。
雨水の三候を通じて、
春はこう変化してきました。
**足元(土)**がほどけ、
**空(霞)**がやわらぎ、
**地上(芽)**が動き出す。
ここまで来たら、次は自然界の“登場ラッシュ”です。
次の節気、啓蟄では
虫が動き、鳥が騒ぎ、生命の気配が一気に濃くなります。
芽は、ほんの始まり。
でも始まりは、いつも小さい。
草木萌動とは、
その小さな始動を「見逃すなよ」という候なのかもしれません。

