明治改暦と暦注―― 国家の暦と民間の暦 ――

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第3部 六曜と近代

第4章 明治改暦と暦注

―― 国家の暦と民間の暦 ――


はじめに

明治5年(1872年)、
日本の暦は大きく変わりました。

それまで使われていた
太陰太陽暦が廃止され、

現在の
太陽暦(グレゴリオ暦)
が採用されました。

この出来事は
単なる暦法の変更ではありません。

日本の暦文化そのものを
大きく変える出来事でした。

特に大きく変わったのが
暦注の扱いです。


太陰太陽暦の暦注

江戸時代までの暦には、

さまざまな暦注が
記されていました。

例えば

十二直
二十八宿
天赦日
往亡日
不成就日

などです。

これらは、

陰陽五行や天体の周期に基づく
時間思想でした。

暦は単に日付を示すものではなく、

宇宙の秩序を表す書物

でもあったのです。


明治政府の方針

明治政府は、

西洋の制度を取り入れ、

近代国家を作ろうとしました。

その中で、

暦もまた
大きく改革されます。

政府は、

太陽暦を採用するだけでなく、

暦の内容も
整理しました。

特に問題とされたのが

吉凶を示す暦注

でした。

政府はこれらを

迷信的なものとして
公的な暦から排除しようとしました。


暦注の削除

明治政府が発行する暦では、

従来の暦注の多くが
削除されました。

これは、

近代国家にふさわしい
合理的な暦を作るためでした。

暦は、

行政や社会制度の基準となる
公的な時間制度です。

そのため、

吉凶判断などの暦注は

国家の暦には
ふさわしくないと考えられたのです。


民間暦の復活

しかし、

人々の生活から
暦注が消えたわけではありません。

結婚
葬儀
建築
開店

など、

日取りを気にする文化は
依然として存在していました。

そこで、

民間で作られる暦には

再び暦注が
掲載されるようになります。

これらは

民間暦

と呼ばれるものです。


六曜の登場

民間暦の中で、

特に広まった暦注が

六曜

でした。

六曜は

六日周期の単純な暦注で、

誰でも理解できる仕組みでした。

そのため、

複雑な暦注が消えた後の暦でも

六曜だけは
広く使われるようになります。

こうして六曜は、

近代以降の暦文化の中で
重要な位置を占めることになります。


国家暦と民間暦

ここで、

日本の暦は

二つの側面を持つようになります。

一つは、

政府が定める
国家の暦

もう一つは、

人々が生活の中で使う
民間の暦

です。

国家の暦は、

制度の基準となる
合理的な時間体系です。

一方で民間の暦は、

生活や文化の中で
使われる暦です。

六曜は、

この民間の暦の中で
生き続けました。


暦文化の近代化

明治改暦は、

日本の暦文化を

宇宙の暦から社会の暦へ

変える出来事でした。

古い暦は、

天体や陰陽思想と
結びついていました。

しかし近代になると、

暦は

社会制度の基準として
整備されていきます。

六曜が残り、

他の暦注が消えていった背景には、

この

暦文化の転換

があります。


まとめ

明治改暦は、

日本の暦制度を
大きく変えました。

太陰太陽暦から
太陽暦への移行だけでなく、

暦注の扱いも
大きく変わりました。

政府の暦からは
多くの暦注が消えましたが、

民間暦の中では

六曜などの暦注が
生き続けました。

こうして日本の暦は、

国家制度と生活文化の
二つの側面を持つものとなりました。


ひとつ前

ひとつ後


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