――オランダの医学書を理解すること…「翻訳」が世界の見方を変え始めたとき
日本の近代化は、明治維新から始まったという感じがしますが、
もっと早い段階から、その兆しは現れていましたよね。
その前段階として、江戸時代の後半には、すでに
世界の捉え方そのものが静かに変わり始めていたように思われます。
その象徴的な出来事の一つが、
『ターヘル・アナトミア』、すなわち『解体新書』の刊行です。
これは単なる医学書の翻訳ではなく、
「翻訳によって未知の世界を理解しようとした、最初の本格的な試み」
といえるでしょう。
目次
ターヘル・アナトミアとは何か
『ターヘル・アナトミア』は、オランダ語の解剖学書をもとに、
杉田玄白・前野良沢らによって翻訳された書物です。
- 刊行:1774年(安永3年)
- 日本で初めて本格的に紹介された西洋解剖学書
- 後に「解体新書」として知られる
当時の日本では、医学は漢方を中心とする体系が主流であり、
人体の構造を実物の観察によって理解するという発想は、
一般的なものではありませんでした。
なぜ「解体」が衝撃だったのか
『解体新書』がもたらした最大の衝撃は、
人体を「理念」ではなく、「構造」として捉えた点にあります。
それまでの医学は、
- 古典の記述
- 権威ある説
に基づいて理解されることが多く、
「実際に見て確かめる」という姿勢は、必ずしも中心にはありませんでした。
一方、ターヘル・アナトミアは、
- 解剖による観察
- 図による説明
- 構造の対応関係
を重視し、
目で見た事実を基礎に理解する態度を、日本にもたらしました。
人体を「考える対象」として捉える視点が、
ここで初めて、はっきりと形になったと言えるでしょう。
図と文章が果たした役割
『解体新書』には、多くの図版が掲載されています。
これらは単なる挿絵ではなく、理解そのものを支える装置でした。
言葉だけでは説明しきれない人体の構造を、
図と文章を組み合わせて示すことで、
- 見る
- 比べる
- 対応づける
という思考の流れが、読者の中に自然と生まれます。
こうした思考の手順そのものが、
当時の日本には新しいものだったのです。
ここに、後の科学的思考の萌芽を見ることができます。
翻訳という困難な作業
しかし、この書を生み出す過程は、決して平坦ではありませんでした。
最大の壁は、
対応する言葉が存在しないという問題です。
- 神経
- 筋肉
- 臓器
- 構造
- 機能
こうした概念を表す日本語・漢語は、
当時ほとんど整っていませんでした。
翻訳者たちは、
- 既存の漢字を組み合わせ
- 意味を推測し
- 試行錯誤を重ねながら
**「意味を考え、言葉を与える」**作業を続けたのです。
ここで行われていたのは、
単なる翻訳ではなく、
言葉を通して意味そのものをつくる作業でした。
翻訳がもたらした態度の変化
『解体新書』が残した最大の遺産は、
医学書の翻訳そのもの以上に、
翻訳に向き合う姿勢だったと言えるかもしれません。
- わからないものを、わからないままにしない
- 見て、比べて、考える
- 既存の権威より、観察を重んじる
この態度は、後に日本が西洋文明と向き合う際の、重要な基盤となっていきます。
文明開化の前夜としての意味
『ターヘル・アナトミア』は、
まだ「科学」という言葉すら定着していない時代の産物です。
しかしそこにはすでに、
- 観察に基づく理解
- 構造として世界を見る視点
- 言葉を作りながら理解を深める姿勢
が、はっきりと現れています。
おわりに──翻訳は、文明の準備だった
『ターヘル・アナトミア』は、
文明開化を直接的に語る書ではありません。
しかしこの書が示したのは、
未知の世界を理解しようとする態度そのものでした。
やがて日本は、
この態度に名前を与え、
体系としてまとめる言葉を必要とするようになります。
「科学」という言葉は、まだ生まれていませんでした。
――物語は、そこから静かに始まっていたのでしょうね。
