前回、『魏志』倭人伝に残された、「景初二年六月」 と、
『日本書紀』が引用する、「景初三年六月」 を見ました。
今回は、その『日本書紀』側の記事をもう少し詳しく見てみます。
『日本書紀』巻第九・神功皇后紀の三十九年条には、
「是年也、太歳己未」 とあります。
「この年は、太歳己未であった」という意味です。
己未は六十干支の一つ。西暦に対応させると239年です。
そして、その直後に『魏志』の記事が引用されています。
ここでは、
神功皇后三十九年
己未
魏の景初三年
という三つの時間が重ねられています。
「太歳己未」とは何か
「太歳」は、ここでは年の干支を示す表現として現れます。
己未は、
十干の「己」と、
十二支の「未」
を組み合わせた干支で、六十干支では56番目です。
干支は60年で一巡します。
したがって「己未」という文字だけでは239年と決まるわけではありません。
しかし、『日本書紀』神功皇后紀では、
神功皇后三十九年
という紀年と、
魏の景初三年
という中国年号が同じ場所に置かれます。
景初三年を西暦に換算すると239年。
239年の干支は己未です。
三つの紀年が対応する形になっています。
『日本書紀』は『魏志』を引用している
神功皇后紀三十九年条では、『魏志』を引いて、
「明帝景初三年六月、倭女王遣大夫難斗米等……」
と記しています。
ここで重要なのは、
『日本書紀』自身の記事と、『魏志』からの引用を区別すること
です。
「倭女王が使者を送った」という記事は、中国史書から引用されたものです。
そして『日本書紀』の編者は、その記事を神功皇后三十九年の場所に置きました。
つまり、
中国側に残る倭女王の記事を、
日本側の年代体系の中に組み込んでいる
と見ることができます。
神功皇后と卑弥呼は同一人物なのか
ここで慎重にしたい点があります。
『魏志』に登場する倭女王は卑弥呼です。
一方、『日本書紀』では、その『魏志』の記事が神功皇后紀の中に置かれています。
この配置から、古くから神功皇后と卑弥呼を結びつける理解が生まれました。
しかし、
『日本書紀』本文が「神功皇后は卑弥呼である」と直接書いているわけではありません。
また現在の歴史研究でも神功皇后と卑弥呼をそのまま同一人物として確定することはできません。
ここでは、
「『日本書紀』が卑弥呼の記事を神功皇后紀の年代の中に配置した」
という事実と、
「両者が歴史上同一人物だった」
という判断を分けておく必要があります。
なぜ中国史書の記事を入れたのか
『日本書紀』は日本国内の伝承だけで歴史を組み立てているわけではありません。
中国や朝鮮半島の史書の記事も取り込みながら、年代を配置しています。
神功皇后紀の倭女王記事は、その分かりやすい例です。
中国史書に、
景初三年
という年号の記事がある。
その年を六十干支へ直すと、
己未。
『日本書紀』では、
神功皇后三十九年も己未
とされています。
こうして、
中国の年号と日本側の紀年を干支で結びつける
ことができます。
六十干支が、異なる紀年体系をつなぐ共通の目盛りとして働いているのです。
ただし「景初二年・三年」の問題が残る
ところが前回見たように、現在伝わる『三国志』本文には、
「景初二年六月」とあります。
景初二年は238年です。
238年の干支は戊午。
一方、『日本書紀』が引用する景初三年は239年。
こちらは己未です。
つまり、
『日本書紀』の
神功皇后三十九年
=太歳己未
=景初三年
は、内部ではきれいに対応しています。
しかし現存『三国志』の
景初二年
とは一年ずれます。
ここに史料照合の難しさがあります。
六十干支が「橋」になる
この例は、六十干支の面白い働きを示しています。
中国では魏の年号、景初三年。
日本書紀では、神功皇后三十九年。
その間に、己未 があります。
元号や天皇紀年は、その国・王朝の中で使われる時間です。
しかし六十干支は、中国を起源として東アジアで広く共有されました。
だからこそ、
異なる史料の年代を照合する「橋」
として使うことができます。
「一致する」ことと「史実である」ことは別
ただし、
神功皇后三十九年
=己未
=239年
と計算できるからといって、
神功皇后に関する出来事すべてが239年の史実として確認された、
という意味ではありません。
これは第2シリーズで見てきた問題と同じです。
『日本書紀』の中で設定された紀年
と、
歴史上の実年代
は区別する必要があります。
むしろ重要なのは、
『日本書紀』の編者が中国史書の記事をどの年に置いたのか。
そのとき、どの干支を使ったのか。
という史料構成を見ることです。
己未から見える三つの時間
一つの「己未」という干支から、
日本書紀の時間。中国王朝の時間。現代の西暦。
という三つの時間がつながりました。
神功皇后三十九年。己未。景初三年。239年。
ただし現存『三国志』には景初二年とある。
この一致とずれを一つずつ確認することが、古代の年代を読む基本になります。
次は、この方法を一般化してみます。
「中国年号と六十干支の照合」です。
中国年号・干支・西暦という三つの目盛りは、どのように組み合わせればよいのでしょうか。
参考資料・出典
- 『三国志』魏書巻第三十「烏丸鮮卑東夷伝」倭人条
卑弥呼の遣使記事を含む原典。現存本文には「景初二年六月、倭女王遣大夫難升米等詣郡」とあります。 - 国立国会図書館レファレンス協同データベース「三国志東夷伝の部分の原文と読み下し文が載っている資料はありますか。」
『三国志』魏書東夷伝の原文と読み下し文を確認できる資料が紹介されています。 - 『日本書紀』巻第九 神功皇后紀
三十九年条に「是年也、太歳己未」とあり、『魏志』を引用して「明帝景初三年六月」と記しています。 - 陳寿『魏志倭人伝』(青空文庫)
上記本文をオンラインで確認できます。底本は岩波文庫『魏志倭人伝』、親本は『三國志 魏書 巻三〇 東夷傳』武英殿版本です。 - 横山貞裕「魏と邪馬台国との関係について」 本文PDFあり
景初二年・三年の異同、景初暦、公孫氏政権と倭国外交の関係を検討した全文公開論文。

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