――天皇の祈りと「自前の時間」をめぐって
ここまで見てきたように、
天皇の祈りは、偶発的な宗教行為ではなく、
暦の中に制度として配置された行為でした。
では、その暦は、どこから来たのでしょうか。
そして日本は、中国を中心とする東アジアの時間秩序の中で、
どのような立場に置かれていたのでしょう。
この問いに答えるには、
「いつ頃の話なのか」をはっきりさせる必要があります。
目次
祈りは古くからあったが、「暦」はまだ外にあった
――3〜6世紀頃(古墳時代)
日本列島において、
王(のちの天皇)による祈りや祭祀そのものは、
かなり早い時期から行われていました。
しかしこの段階では、
- 年の始まり
- 季節の区切り
- 祭祀の日取り
を統一的に管理する国家的な暦制度は、
まだ整っていません。
必要に応じて、
- 中国や朝鮮半島から伝わった暦知識を
- 断片的に利用する
という状態でした。
この時代は、
「祈りはあるが、国家の時間はまだ自分で持っていない」
段階だったと言えます。
決定的な転換点――暦が「国家のもの」になる
――7世紀(飛鳥時代)
状況が大きく変わるのが、7世紀です。
隋・唐という巨大な帝国国家と向き合う中で、
日本は次第に理解するようになります。
暦を持たない国は、
自らの時間を持たない国である。
中国では、暦は単なる日付表ではなく、
- 天子が天下を治める正当性
- 王朝の権威
- 国家秩序そのもの
を示す根幹でした。
この考え方が、日本にも強く影響します。
とりわけ重要なのが、天武天皇の時代です。
- 天文観測を重視
- 祭祀と政治を結びつける意識が明確
- 国家としての時間管理を志向
ここで初めて、
祈り × 暦 × 統治
という三者の結びつきが、はっきりと姿を現します。
制度として完成する「自前の時間」
――8世紀(奈良時代)
8世紀に入ると、この構想は制度として完成します。
- 大宝律令(701)
- 養老律令(718)
これらの律令体制のもとで、
- 陰陽寮が設置され
- 暦博士・天文博士が官職化され
- 暦の編纂は国家事業となりました
ここで重要なのは、
暦の編纂が、天皇の命によって行われたという点です。
つまり、
- 暦を作るのは官人
- しかし、それを命じ、承認するのは天皇
という構造が成立します。
この時点で、天皇の祈りは、
- 自国で作られた暦に基づき
- 自国の祭祀体系として
- 年間を通じて配置される
ものとなりました。
中国の時間秩序と、あえて距離を取る日本
――8〜9世紀(遣唐使の時代)
日本は、中国の暦法を深く学びました。
天文学・陰陽思想・暦計算は、当時最先端の知でした。
しかし同時に、日本は次の点で一線を引きます。
- 中国皇帝から暦を「授かる」形は取らない
- 正朔(年の始まり)を完全には委ねない
- 年号を自国で立て続ける
これは、中国文明を拒んだわけではありません。
むしろ、
中国の時間秩序を理解したうえで、
その中に完全には組み込まれない
という、極めて慎重で戦略的な選択でした。
天皇の祈りが意味するもの
こうして見ると、日本における天皇の祈りは、
- 中国文明の影響を受けながら
- 中国皇帝の時間支配からは独立し
- 日本独自の暦の上で行われる
という、独特の位置を占めています。
天皇の祈りは、
- 宗教行為であると同時に
- 国家が自らの時間を持っていることの表明
でもあったのです。
いつ頃からの話なのか――時代の変遷まとめ
整理すると、次のようになります。
- 祈りそのもの:
古墳時代以前から存在 - 暦と結びついた祈り:
7世紀後半(飛鳥時代)から形成 - 自前の暦による体系化:
8世紀(律令国家成立期)に完成
天皇の祈りと暦が深く結びつくのは、
律令国家が成立する過程そのものだった、
と言ってよいでしょう。