中国史に見る暦と日本
――「正しい時間」は誰のものだったのか
日本において暦の編纂が、
天皇の命による国家事業として行われていたことがわかりました。
しかし、ここで一つ問いが残ります。
その「正しい時間」という発想は、
日本固有のものだったのでしょうか。
答えは、必ずしもそうではありません。
日本の暦制度は、
中国を中心とする東アジアの時間秩序の中で理解する必要があります。
目次
中国において暦は「政治そのもの」だった
中国史において、暦は単なる暦法ではありません。
暦を制定することは、
- 天命を受けた正統王朝であることの証明
- 天下を統べる資格の表明
- 政治秩序の可視化
を意味しました。
王朝が交代すれば、
必ず**改暦(かいれき)**が行われます。
これは、
天が新たな王朝を認めた
= 正しい時間が更新された
という宣言でもありました。
「正朔(せいさく)」という思想
中国では、
王朝が定めた暦を用いることを
正朔を奉ずると表現します。
正朔とは、
- 正月(年の始まり)
- 朔(新月)
すなわち、
時間の起点そのものを意味します。
誰の正朔を使うかは、
誰の支配を認めるかと同義でした。
冊封体制と暦の授与
この思想は、
中国を中心とする国際秩序――
いわゆる冊封体制の中で機能します。
周辺諸国は、
- 皇帝から称号を受ける
- 年号・暦を受け取る
- 正朔を用いる
ことで、
中国王朝の秩序に組み込まれました。
暦の授与は、
外交儀礼であると同時に、
政治的従属関係の確認でもあったのです。
中国史書に記された「倭」と暦
中国の正史、たとえば
魏志倭人伝
宋書
隋書
などには、「倭」あるいは「日本」に関する記述が見られます。
そこでは、
- 朝貢の時期
- 使節の往来
- 年号の使用
といった点が記され、
日本が中国の時間秩序の外に完全にいたわけではないことが分かります。
一方で、日本は、
- 中国の年号を用いない時期がある
- 独自の年紀表現を用いる
など、
距離を保つ姿勢も示していました。
暦を持つこと=主権の表明
ここで見えてくるのは、
暦が単なる文化技術ではなく、
主権の象徴だったという事実です。
- 中国王朝の暦を使う → 秩序に組み込まれる
- 自前の暦を作る → 自立した時間を持つ
日本にとって、
暦をどう扱うかは、
どの国際秩序に立つのか
を示す選択でもありました。
日本は、なぜ自前の暦を必要としたのか
日本が律令国家として整備されていく中で、
天皇を中心とする国家祭祀と統治を維持するには、
- 中国の時間に従うだけでは不十分
- 自国の祈りと政治に適合した暦
が必要になっていきます。
天皇の祈りを正しく行うためには、
自国で管理できる時間が不可欠だったのです。
次の問いへ
ここまでで、
- 中国では暦が政治秩序だったこと
- 日本もその影響下にあったこと
- 暦が主権と深く結びついていたこと
が見えてきました。
では、日本は
どのような経緯で「自前の暦」へと踏み出したのでしょうか。
次は、
「日本はなぜ自前の暦が必要だったのか」へ進みます。
参考
- 中国王朝の改暦思想
- 正朔概念と冊封体制
- 中国正史における倭・日本の記述