いつ、誰が六十干支のルールを決めたのか?
目次
結論から言うと
六十干支を「決めた一人の人物」は存在しません。
そしてもう一段踏み込みます。
六十干支は、
**誰かが発明した制度ではなく、
記録と運用の現場で“固まっていったルール”**です。
「いつ決まったのか?」という問いの答え
おおよその答えはこうです。
- 殷(商)代後期(紀元前13世紀ごろ)
→ 十干・十二支が別々に使われている - 周代を通じて
→ 干と支の併用が増える - 戦国〜秦漢期
→ 六十干支の循環が事実上の標準になる
つまり、
300〜500年かけて、自然に一本化された
と考えるのが、いちばん無理がありません。
殷の時代:すでに「干支の原型」はあった
殷代の甲骨文(占いの記録)を見ると、
- 甲・乙・丙…という 十干
- 子・丑・寅…という 十二支
が、すでに 日付の識別に使われています。
ただしこの時点では:
- 完全な60循環 ❌
- 年を示す体系 ❌
あくまで
「今日はどの日か」を区別するための符号
でした。
周の時代:組み合わせが“便利だ”と気づく
周代に入ると、
- 国家の記録が増える
- 祭祀・戦争・契約が増える
- 過去との照合が必要になる
ここで問題が起きます。
十干だけだと10日で被る
十二支だけだと12日で被る
でも、
干と支を組み合わせれば60日は被らない
この「ちょうどいい長さ」が、
実務の現場で評価されました。
誰が決めたのか? →「暦官」たち
六十干支を事実上“決めた”のは、
- 王ではありません
- 思想家でもありません
**暦官(れきかん)・史官(記録官)**です。
彼らの仕事は、
- 日付を書く
- 占いを書く
- 王命を書く
- 祭祀日を管理する
つまり、
間違えたら困る人たち
でした。
彼らにとって重要なのは思想ではなく、
- 被らない
- 伝えやすい
- 引き継げる
この条件を満たした結果が、
六十干支だったわけです。
秦・漢で「国家標準」になる
秦・漢の時代になると、
- 官僚制度が整う
- 全国的な記録統一が必要になる
ここで六十干支は、
国家共通の時間コード
として固定されます。
ただし重要なのは、
- 「ここから始める」と宣言されたわけではない
- すでに使われていたものを整理しただけ
という点です。
だから、こう整理できる
六十干支は、
発明された制度ではなく、
生き残った制度である。
- 使いやすかった
- 間違いにくかった
- 王朝が変わっても捨てられなかった
結果として、
「決めた人はいないが、決まってしまった」
これが、いちばん正確な言い方です。
問答一との接続(ここ重要)
- 問答一:甲子の元年はない
- 問答二:決めた人もいない
これは矛盾ではありません。
六十干支は、
- 起点を持たず
- 創設者も持たず
- それでも回り続ける
純粋な暦技術だからです。
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